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学校でNHAを使う
学校でNHAを使う場合、以下のようなことにNHAは役立てると考えられます。
○教師が、どの子にも「その子の本質的な素晴らしさ」を見て、伝え、自信を育てることができる。
○子どもが、自分の難しさをコントロールしようとするのを助け、育てることができる。
○子どもが、どんな状況でも自分の良さを見ることができ、ポジティブな自己像をもてるようになる。
○子ども同士が、相手の「良さを見る」ことを選択できるようになる。
○教師が、同僚や保護者の「良さを見る」ことができ、人間関係がポジティブに変容する。
よく聞かれる不安・疑問
Q. クラスには、たくさんの子ども達がいます。一斉指導の中で一人一人をじっくり見るのは無理だと思います。
A. 一斉指導の中で、一人一人の子どもをじっくり見ることだけに時間を取る必要はありません。
例えば授業中、先生方は授業を進めながら、子ども達の様子や反応を見ていると思います。その子ども達の様子や反応を見る「見方を変える」ことで、見えてくるもの、子どもへの関わり方が変わってきます。
Q. これまでの指導法をやめてNHAにする、ということでしょうか。
A. 違います。
これまでに様々な指導法、教育方法を学び、実践されてきていると思います。その中に、NHAも加えてみる、という感覚です。NHAを子どもに使うということは、子どもが最善の道を歩いていく(最善を選択する)ことを助けることです。子どもにかける言葉を一つでも二つでもNHAに変えることで、その子が自分の素晴らしさに気づき、自分の難しさをより良い方向へ使う手助けができます。
学校でNHAを使った事例
【小学校中学年担任 Y先生】
A君は、担任ともクラスメイトとも、ほとんどコミュニケーションをとったことがありませんでした。
そんなA君と、 NHAを通して、小さなつながりを感じた瞬間がありました。
A君は文を書くことが苦手です。
作文の授業の時のことです。A君は、鉛筆を手に握ったまま、全く動きませんでした。作文用紙を見ると、1文字も書いていません。
NHAを学んでいなかったら、きっと私はこんな風に考えて、彼に接していたでしょう。
「とにかく、書くための支援をしなきゃ!」
「A君が書けそうなテーマをいくつか提示して、選んでもらって…文の書き出しの部分を私が書いてあげて…。」
でも、今回、私の目には彼のある姿が目に止まったのです。
それは、
〈A君が、鉛筆を手に握っていること〉
これって、作文の時間なのですから、当たり前のことですよね?
以前だったら、絶対に気に止めないところです。
でもこの時、NHAの視点を取り入れてみよう、と思うことができたのです。
彼にとっては、1文字を書き出すのがとても大変なことだったはず。でも、鉛筆を握っているということは「作文を書く」ということを放棄せずに、自分なりに向き合おうとしているんだ。
それを言葉を変えて、彼に伝えました。その後…、
彼が作文を書きだしたかどうか…は、忘れてしまいました・笑
というのも、もっと嬉しいことがあったからです。
次の時間に、私はクラスのみんなに向かって、
「課題が終わった人は、ノートを配るお手伝いをしてくれると助かるよ。」
と伝えました。そして、私は自分の机で仕事をしていました。
課題を終えた子が何人か、ノートを取りに来てくれたのですが、なんと、その中にA君の姿があったのです!
私はもうびっくり!A君が、これまで自分から進んでお手伝いをしたことなんてなかったからです。
「課題終わったから、ノート配ります。」
なんてことは、彼は言いません。ただ黙って、私の目の前に立っています。
私は彼に、
「ノート配りのお手伝いをしにきてくれたの?」
と聞きました。
彼は、私の目を見ながら、黙って頷きました。
この時、私は本当に嬉しかったです。あくまでも私の推測ですが、作文の時間に伝えた、彼への言葉がけが、きっと彼の胸に届き、お手伝いを名乗り出てくれたのではないか…。そう思いました。
慌しい学校生活の中でNHAを実践し続けることは、私には難しいことでした。でも、ほんの少しでも、NHAの「目」を通して子ども達を見つめることで、子どもの自発性を引き出すことができる。NHAの可能性を感じた瞬間でした。
Y先生の事例から分かること
A君は、作文の授業であるにも関わらず、1文字も書いていません。ただ鉛筆を持って、座っているだけです。
よくありがちな関わり方は、
◇書くための支援をしよう!と思い、A君に質問しながら支援する。
◇A君からテーマや内容が引き出せなければ、「こんなテーマは?」「こんな書き出しは?」と教師が提案してA君がその中から選ぶ。
◇「がんばって書こうよ。」「授業中に書けなかったら、休み時間も書いてね。」などと叱咤激励する。
などでしょう。
もちろん、これらの関りも、子どもの成功をつくり出したり、理解を手伝ったり、学びを進めたりするのに役立ちます。でも、その時の子どもの思いはどうでしょうか?
結果的に、こういった支援で作文を書けたとして、子ども達はどう思うのでしょうか?
◆どうせぼくは、先生が手伝ってくれなくちゃ作文は書けないんだなあ。
◆やっと終わった。終わってよかった。
◆作文、いやだな。やっぱり苦手だな。
こんな思いではないでしょうか?
〈A君が、鉛筆を手に握っていること〉という事実があります。
作文の時間なのだから、当たり前のこと、と「見る」こともできます。
反対に、A君が成功している、と「見る」こともできるのです。
Y先生は、当たり前に見える事実の中に、A君の素晴らしさを「見る」ことを選択しました。
その結果、
「作文が苦手なA君にとって、1文字を書き出すことは大変。でも、鉛筆を握ることができている。そこから分かるのは、A君が作文を書くことをあきらめず、書こうとしている、彼の粘り強さだ。苦手なことに挑戦しようとする勇気だ。ちゃんと授業に参加しようとする責任感だ。」
というように、A君の素晴らしさを「見る」「伝える」ことができたのです。
この承認の後に、もちろん、書くための支援もしたと思います。
A君の心の中はどうでしょうか?
解説するまでもなく、その後の彼の行動に表れています。
具体的な根拠をもって、自分を認めてもらえた。そんな喜びが感じられます。
「作文を書いていない」という事実を、教師は、「作文を書けない」「作文が書けるようになんとかしなくちゃいけない」という風に、不足している・できていない・問題である、と「見る」こともできます。
素晴らしいと見るか、問題だとみるか、その瞬間、その瞬間、私たちは選ぶことができます。
NHAは、その瞬間、「素晴らしさを見る」ことを選ぶ、子どもへの関りです。